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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [9]




「慎ちゃんが嫌だって言ってるのに、勝手な事言うんじゃないの」
 でも。
 美鶴は胸に手を当て、呼吸を整えながら思う。
 こんなに痛がってるのに、病院に連れて行かなくていいのだろうか? それこそもしもの事にでもなったら、どうすればいいのだろう?
 騒動になるは御免だ。
 その気持ちもわかる。だがその考えが、(のち)にもっと大きな騒動を招く結果になる事もあるのだということを、美鶴は知っている。
 春。駅舎で拾った怪しい落し物を、美鶴は警察へは届けなかった。覚せい剤が入っているかもしれない代物だったが、確証も持てないのに騒動になるは避けたかった。
 聡や瑠駆真が転入してきて、まだ一ヶ月も経っていなかった頃の話だ。気の弱い数学教師の門浦(かどうら)にハメられそうになっていたなどとは、思いもしなかった。首に紐か縄を掛けられて、殺されそうになった。
 思い出して身震いをする美鶴の目の前で、霞流は時折眉を顰めたりうめき声をあげたりする。やはり痛いのだ。
 やがて、ユンミがスクッと立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
 囁くように霞流にそう告げ、足早に部屋を横切る。そうして外へと続く扉へ手をかけ、振り返った。
「逃げんじゃないわよ。勝手に救急車なんて呼ぶのも許さないからね」
 ジロリと睨み、そうして部屋を出て行った。
 二人が、残された。
 美鶴はしばらくオロオロと扉と霞流の顔を交互に見ていたが、やがてゆっくりと床に尻を付けた。
「霞流さん」
 電球が切れているとかで、部屋の中は暗い。せめてもという理由でつけた流しの蛍光灯。広いとは言えないワンルームだが、それでも蛍光灯一本では部屋全体を照らす事はできない。冷たい光がなんとか届くが、十分とは言えない。
 別に本を読むとかってワケじゃないし、寝るんだったらむしろ暗い方がいいんだろうけど。
 一方からだけ光に照らされた霞流の顔は、光の当たる部分は異様に白く、影の部分はひたすら黒い。
「霞流さん」
 呼びかけるが、応答は無い。今は瞳も閉じている。普段から色白の頬が、今はさらに白く、青白くなっている。
 部屋は暖かいが、その肌は、触れれば冷たいのだろう。
 手を伸ばして確認する勇気はない。
 狭い部屋は、エアコンの効きは良いらしい。暖かいがカラッカラに乾いた室内で、美鶴はカサついた唇を舐めた。
 私のせいで。
 自己防衛とは言え、こんなふうにしてしまったのは自分だ。
 どうしよう。

「死んじゃったらって事よっ!」

 霞流さんが死ぬ。
 嘘だ。そんな事になるはずがない。だって私、そんなに強く押したつもりはないもの。ぶつかった時だって、頭を打つような鈍い音とかなんてしなかったし。
 だが、目の前の霞流は、後頭部を負傷して横たわっている。

「自分は正義で悪い事なんて何もしていないと思っているような傲慢な女が大っ嫌いなのよ」

 そうだ、これはきっと言い訳なんだ。どんなに理由を並べたところで、悪いのは私なんだ。
 悪いのは私。悪いのは私。
 呪文のように美鶴の周囲をぐるぐると回る。
 悪いのは私。
「ごめんなさい」
 その言葉が届いているのかどうかはわからない。
 悪いのは私。だから、私が何とかしないと。
 だが、どうすればいいのか思いつきもしない。この部屋へ連れてきて包帯を巻いたのはユンミだ。自分は何もできなかった。
 でも、私にできる事って。
 霞流が小さく呻く。
「霞流さんっ」
 慌てて顔を覗き込む。瞳は硬く閉じられ、こちらの言葉が聞こえているようには見えない。
 こんなに苦しがってる。
 そっと左手をコートのポケットへ突っ込んだ。そうして取り出したのは携帯。
 霞流さんは嫌だって言ったけど。
 薄型の携帯。京都で、何かあった時の為にと渡された携帯。
 あれ以来ずっと持っている。返せと言われれば返さなければならないのだろう。いつそう言われるのかとビクビクもしているが、霞流からはそのような事は言われない。
 適当にボタンを押すと、ビッと鈍い音がした。モニターが明るくなる。いつの間にか、日付が変わっている。
 ユンミさんは勝手な事はするなと言ったけど。
 グッと力を込めて携帯を握る。一度、霞流へ視線を移す。
 こんなに痛がってるのに、病院にも連れて行かないなんて、そんなのやっぱりダメだよ。
 騒ぎになるのは嫌だって霞流さんは言うけれど、今はそういう時じゃない。きっと救急車で病院に運ばれて、それが霞流邸の木崎さんとか、あとお母さんとかに連絡がいくのが嫌だってことなんだろう。でも、でもだからってこのまま放っておくなんて。
 美鶴は少し息を吸い、携帯を見つめた。そうしてゆっくりと指を動かした。だが、最初の番号を押す前に、それは細い指で制された。
 びっくりして顔をあげると、間近で霞流が細い瞳をこちらへ向けている。
「勝手な事はするな」
「霞流さん」
 美鶴は身を乗り出す。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫に見えるか?」
 さっきも同じような事を言っていた。
 霞流は、指に力を込め、双眸から冷たい光を放ちながら続ける。
「お前に、そんな勝手な事をする権利は無い」
「でも」
 反論しようとする美鶴を強引に遮る。
「それよりも、この責任はどう取ってくれる?」
「え?」
 一瞬、ワケがわからず言葉を失う。
「どうって?」
「俺をこんな有様にしてくれて、まさか無罪放免とは、思ってはいないよな?」
 途端、美鶴の全身を深い詰責(きっせき)が締め付ける。
「すみません」
「詫びればそれで済むとでも思っているのか?」
「あの、治療費は私が」
 そんなお金、どこにあるのかはわからないけれど。
 震える声で、しかしそう言わねばならぬだろうという気持ちで瞳を閉じる。
「私が払いますから」
 そんな言葉は霞流に一蹴される。
「金などお前に頼るまでもない。そもそも、火事で焼け出され、こっちが援助してやらねば生活する事もできなかったお前に、どれほどの金が出せる?」







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